2012年10月9日

「萃点」としてのゲーミフィケーション

ゲームのちからで世界を変えよう会議をたちあげて、もうそろそろ10ヶ月になります。
これまで、いわゆる「ゲーミフィケーション」と言うものへの言及を本格的にすべきかどうか迷っていました。
Noah個人としても、ゲームのちからで世界を変えよう会議という団体としても、この10ヶ月間、おそらく最も長い時間をかけてゲーミフィケーションに関して考えてきました。
フェイスブックでのグループや、Skypeなどでは、少人数ではありますが、ゲーミフィケーションとは何なのか、ゲームのおもしろさとはどこにあるのか、という話を幾重にも重ねてしてきました。

それでもやはり、というよりは、議論を重ねれば重ねるほど、ゲーミフィケーションというものを語ってはいけないのではないか?と思うようになりました。
今回は、そんな悩みとともに、「萃点としてのゲーミフィケーション」ということでブログを書いてみようと思います。

さて、「萃点としてのゲーミフィケーション」と書きました。
「萃点(すいてん)」とは、南方熊楠の造語と言われています。
南方は、1867年に生まれた学者であり、思想家です。菌類学者として特によく知られていますが、1892年にはイギリスに渡り、その後10年弱にわたり大英博物館で東洋図書目録編纂係をしながら見識を深めたとされます。

その南方が、ある書簡で以下のような図を書き、萃点について説明しています。

相当簡単に言ってしまうと、萃点の「萃(すい)」とは「あつまる」ということであり、「萃点」といえば、
「色々なものやことの、偶然、必然が集まる場所」
ということになります。

後に「南方曼荼羅」と呼ばれる上の図により、南方は、「ものごとや論理はどこかで交差し、一点に結ばれている。その点をみれば様々なことがよりはっきりと見えてくる」と説明します。
さらに、その「萃点」は、まるで粘菌のように、「移動する存在である」と南方熊楠は言うのです。

あまりにも難解であります。
難解であるがゆえにこの記事にははてブは付かない追記:少しだけ付いた。

さらに読者を混乱に陥れるようなことを言いますが、この「萃点」という概念、ある意味でゲーミフィケーションを考えることに近いと思うのです。

ゲーミフィケーションというのは、単純なフレームワークで語れるものではないと思うわけです。
それでもやはりフレームワークにするのは、そのほうが分かりやすいからでしょう。
特にこれまでゲームに接したことの無い方や、マーケティングその他で似たような事例を見たこと無い方にとってはありがたいことだなと思います。

しかしながら、それで全てが語り尽くされるわけではない。
あたかも南方曼荼羅でいう、一本の線を語っているようなものです。
ゲーミフィケーションに限った話ではなく、すべてのフレームワークは「ものごとをシンプルにするために」作られているものです。
それは、対象とする物事が余りにも複雑すぎるからです。

ゲーミフィケーションという「対象」も、あまりにも複雑で、高度です。
そして仮に「ゲームのように、夢中になってもらうこと」とゲーミフィケーションを定義するとなると、
結局のところゲーミフィケーションというやり方を成功させるには、「夢中になるゲームを作るにはどうすればいいのか」を考えることに似ているわけです。

「夢中になるゲーム」の定義は人それぞれでありはしますが、「スーパーマリオ」のようなゲームを作ることは誰もができることではないでしょう。
つまり、やっぱり単純なフレームワークに沿ってあてはめていくだけで素晴らしいゲーミフィケーションができるかというと、そうではありません。

もう一つ、「ゲーミフィケーションは常に動いていく存在である」ということです。

仮に今、ゲーミフィケーションを導入してうまく行ったとしても、それは「他が意識して取り入れていないから」だと思います。

ガートナー研究所によれば、「2015年までに企業の50%がゲーミフィケーションを取り入れるようになる」とのことです。
まあ、ゲーミフィケーションの定義をどう置くかによっては取り入れるとも取り入れていないとも言えるので数字にはあまりこだわる必要はないとは思いますが、ひとつ言えるのは、

「意図的にせよそうでないにせよ、ゲーミフィケーション的なものを取り入れる企業は、全体として増えこそすれど減ることはないだろう」
ということです。

つまり、ゲーミフィケーションは今でこそまだまだ浸透していない考え方ではありますが、今後多くの方々がゲーミフィケーションを活用することを考えれば、いわゆるレッドオーシャン化していく未来はそう遠くないと思われます。
また、ゲーム・・・というかエンターテイメントの特性上、「飽き」というのは結構早いスピードでやってきます(面白いとはいえ、何回もやっていると慣れて、飽きる)。

となると次に起こるのはなにか。
より没頭できるゲーミフィケーションの追求です。
そう考えると、ゲーミフィケーションというのは常にその要点が動いていく存在である、ともとれるわけです。

ここまでをまとめます。
1.ゲーミフィケーションはかなり複雑で高度な対象であり、様々な知識が集大成されているものであるが、その全容が解明されているわけではない。
2.ゲーミフィケーションは今後取り入れていく人が多くなればなるほど、その完成度に競争が生まれる。また、人間の「飽き」という要素も入るため、常にその手法が更新されていくものである。

こうした意味で、ゲーミフィケーションは南方曼荼羅で言われる「萃点」と似通ったところがあると思うわけです。
南方熊楠は言います。萃点について、「それをとると、いろいろの理を見いだすのに容易で早い」と。

そんなわけで、ゲーミフィケーションという言葉の定義は置いておいて、「ゲーミフィケーション的な」ものを考えるということには、それなりの意義があると思うわけです。

(またものすごいニッチな感じの文章を書いてしまった・・・)

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